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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和30年(う)127号 判決

本件公訴事実は「被告人は東ハルヱ及び砥山愛子との不倫な情交関係の清算が困難であり、木村一栄への求婚が暗に拒否せられて希望を失い、また両親に対する不孝を感じ失意の末石川県石川郡松任町字茶屋町六十七番地所在の人の住居に使用せず、かつ人の現存しない安田理八所有に係る木造瓦葺平家建製材工場一棟(建坪七坪)に放火して自殺しようと決意し、右工場に放火せば前記工場附近の住宅をも焼燬するに至るべきことを認識予見しながら昭和二十九年二月二十四日午前二時四十五分頃前記工場内において堆積せるコワ板及び床板上に軽油三升位を散布し所携のマツチで点火せる丸めた新聞紙一枚を前記コワ板の隙間に差し込み点火して放火し、前記工場及び安田理八所有にかかる木造瓦葺二階建住宅二棟(建坪九十二坪)を焼燬した外別表記載のとおり現に人の住居に使用する住宅二十六棟を全半焼せしめたものであるというにある。これに対し原判決は公訴事実記載の如き火災のあつたこと並に右火災は何人かの放火行為に原因することを疑うべきものあることを認め、本件出火が被告人の放火行為に原因することを認めるべき証拠資料としては被告人の司法警察員及び検察官に対する自供調書を措いて他に適格な証拠が存在しないとし、その自供調書の供述内容について、(1)被告人は自供後も再三これを飜し一貫しておらない。(2)被告人の自白は警察官が被告人を旅舘に軟禁状態にしておき五日間連日取調べの末為されたものであること、(3)放火の動機が薄弱に過ぎること、(4)放火の上自殺を決意した者の行為として寝巻をわざわざ普段着に着替えたこと及び右着衣には軽油を撒き散し放火後三、四分乃至十分間火の傍にいたと供述しながら軽油の飛沫或は燻焦の痕跡等なきこと、(5)新聞紙を導火材料として使用したと供述するが、この使用新聞紙についての供述が動揺しその出所があいまいに終つていること、(6)被告人は放火後火中で焼死を遂げるため火の傍に蹲つていた旨供述するが、その滞在時間についての供述が後になるほど短くなつていること、等の諸点を挙げて被告人の自白調書は信憑性がないと認定し、結局本件出火が被告人の放火行為に原因するものと認めるに足る証拠がないとして無罪の言渡をしたことは所論のとおりである。

よつて被告人の司法警察員及び検察官に対する供述の任意性並に真実性につき検討するに、(一)安田理八の昭和二十九年二月二十四日附(記録六九一丁)及び同月二十五日附司法警察員に対する供述調書、原審昭和二十九年七月十八日における東ハルヱに対する証人尋問調書、原審証人梅村熊次郎、同手取三郎の供述、当審証人東ハルヱ、同安田理八、同梅村熊次郎、同手取三郎の供述によれば、捜査当局は当初出火原因につき関係人を取調べ、放火の嫌疑十分と認めるや、東ハルヱをその容疑者とし、同人に対して取調べを集中し、被告人に対しては昭和二十九年二月二十八日まで、単に、比較的重要な一参考人として、取調べを進めたに過ぎなかつたことが認められる。(二)被告人の昭和二十九年二月二十四日附司法警察員に対する供述調書は、主として被告人と砥山愛子、東ハルヱ、木村一栄との関係、及び火災当時の被告人の行動に関するもの、同月二十五日附同供述調書は主として被告人と砥山愛子、東ハルヱとの関係及び被告人の火災当時における行動に関するもの、同月二十八日附同供述調書二通は被告人と砥山愛子、東ハルヱ、木村一栄との関係及び被告人の行状に関するものであり、その各取調べに於て放火の点迄追及された事跡は認められず畢竟するに被告人の以上の各供述は参考人の供述たる域を出ていないことが認められる。(三)被告人の昭和二十九年三月一日附司法警察員に対する第一回乃至第三回供述調書、同日附司法警察員に対する弁解録取書、同月二日附司法警察員に対する第五回乃至第七回供述調書、(被告人の昭和二十九年三月二日附手記添付)、被告人の同月三日附検察官に対する弁解録取書、被告人の同日附裁判官に対する陳述調書、被告人の同日附検察官に対する第一回供述調書はいずれも被告人の自白を録取したものであり、被告人の同年三月六日附検察官に対する第二回供述調書は本件犯行を否認した被告人の供述を録取したものであり、被告人の同月十日附検察官に対する第三回供述調書は主として被告人と砥山愛子、東ハルヱ等との関係に関する被告人の供述を録取したものであることを各認め得るところ、被告人は同日附検察官に対する第四回供述調書中に於て「私は本年二月二十四日午前二時四十五分頃私の勤め先であつた松任町字安田町、安田理八方製材場に放火したことは事実間違いありません。そのことにつき本年三月一日松任地区警察署で手取警部補さんから、お前も年貢の納め時が来たのだ、心を入れ替えて真人間になつてくれ、と言われ私も自分の犯した罪の恐ろしさに事実ありのまま申し上げたのであります。処がその後一人で良く考えて見ますとだんだん恐ろしくなつて来て同月六日島崎検事さんに私がやつたのではありませんと前に言つたことを否認致したのであります。しかし本日貴官から悟されて自分の罪の犯した恐ろしさと又取調官にいろいろ御手数かけて申訳ないと思いその他松任の罹災者の方が、いかに困つて居られるかを思い起しどうしても真実を申し上げて、ざんげしたいと言う気持から、これからその時の事情を詳しく申し上げます。」と述べ、さきの否認を取消して再び犯行を自白するにいたつたことを記録によつて認め得べく、以上によれば、原審公判以後はさておき、原審公判以前に被告人が自白を飜したのは、昭和二十九年三月六日の一回のみであつて、同月十日には前掲のように犯行の否認を取消して再び自白していることが認められる。(四)原審証人梅村熊次郎、同手取三郎の各供述、原審第九回公判期日における被告人の供述、当審における証人梅村熊次郎、同奥祐成、同手取三郎の供述、同証人岩上金次、同岩上ゆきの各証人尋問調書、同検証調書によれば、被告人は本件出火のあつた昭和二十九年二月二十四日司法警察員から松任警察署に任意同行を求められ、その後同月二十八日まで松任駅前かさや旅舘に泊り、司法警察員の同行の下に、毎日右警察署に出頭して取調べを受けたことは認められるがしかしながらまた、前記の資料に依れば、被告人が、かさや旅舘に泊るようになつたのは、当時搜査官憲は出火原因その他につき、被告人に対し引続き取調べを加える必要を認めて居たが、勤め先の安田理八方は焼失し、東ハルヱ方には泊らないといい宿所のない被告人を、遠距離の実家より、連日松任署に出頭させるのも如何と考え、被告人の同意を得た上、同人をして叙上旅舘に宿泊せしむべく斡旋したことによるものであり、その間、被告人に対し見張等をつけた事実もなければまた警察より同旅舘に対し、被告人の動静に関し特に注意するよう依頼した事実もなく、これを目して「軟禁」であるとするに足るような大げさなものでなかつたことが認められ被告人を軟禁状態において追及をした結果犯行を自白するに至つたものとは認められない。(五)被告人の司法警察員に対する各供述調書、被告人の検察官に対する第一、第三、第四回供述調書、安田理八の司法警察員に対する昭和二十九年二月二十四日附(記録六五八丁)昭和二十九年三月二日附各供述調書、安田理八の検察官に対する第三回供述調書、安田貢の司法警察員に対する昭和二十九年二月二十四日附(記録一六六六丁)、同年三月二日附各供述調書、安田貢の検察官に対する同年三月六日附供述調書、原審証人木村一栄、同砥山愛子、同東ハルヱ、北出貴義の各証人尋問調書を綜合考察すれば、(イ)被告人は昭和二十六年夏頃(十九才当時)古市春子と関係して姙娠させたが、親に説諭されてその子を堕胎して別れ、良心的に苦しみつつも昭和二十七年末頃から春江駅前滝川飲食店に酒食のため行くようになり、同店の仲居で一歳位年長のますみと関係をもち、世評が高くなり、父から強く注意を受け、昭和二十八年四月頃アドルムを飲んで自殺を図つたがその目的を遂げなかつたこと、(ロ)同年五月には春江駅前滝川飲食店の仲居で二十歳位年長の砥山愛子と情交を結び、更に同年十一月初頃丸岡町の飲食店三楽の仲居で十歳以上年長の東ハルヱとも情交関係を結び、同月中旬頃被告人は家から五万円を持ち出し、右ハルヱと松任に駈落し、松任町字辰巳町河岸友一方の二階に同棲し、同年十一月下旬頃製材業安田理八方に製材工として職を得たが、ハルヱと同棲しながら他方愛子とも関係を続け、時には省みて今更ながら自己の非行に嫌気がさし、右両女との関係を止めようと思つたこともあつたが、どうしても止めることが出来なかつたこと、(ハ)しかるに被告人は昭和二十九年一月頃ともに芦原温泉に一泊したことのある同郷の木村一栄に求婚したが、その返事も得られず、将来に対する希望を殆ど失つたような気持に陥つたこと、(ニ)被告人は昭和二十八年十二月五日頃父親から諭されて東ハルヱと別れることを誓い乍らその実行ができず、愛子、ハルヱとの紊れた生活のため、自然仕事も怠り勝となり、昭和二十九年一月中は十日位、同年二月中は一週間乃至十日位しか働かず、愛子、ハルヱの両名からは互に他の女と別れるよう迫られながら、そのいずれと結び、いずれを捨てる決心も付かずハルヱとは痴話喧嘩をしながらも同棲を続け、他方愛子とも関係を絶ち切れなかつたこと、(ホ)同年一月中旬頃東ハルヱから勤先の息子安田貢が「北出は仕事を怠け材料も無駄にする。」と言つていたということを聞き、不快に思つていたところ、たまたま同年二月二十三日朝安田方の事務所内で被告人が安田外美子、杉本花子等に対し「音楽学校に入りたいので洋服を質に入れたい」と話している際、外出先より安田理八が帰宅してこれを聞き被告人に対し、「音楽学校に行くのも結構だが父親から世話を依頼されているので、自分が明日でも春江へ行き父親に話してやる。親の了解を得なければならない。何れにしても意思を強くもつて行かなければ駄目だ。お前の心はふらふらしていて駄目だ。良く考えて良いと決心したら正しく進んで行け」と叱られたこと。(ヘ)これに対し被告人は、安田理八によつて、父に対し、自己の乱れた生活状態を告げられることを虞れるの余り「そうなれば自分は死ぬより外はない」等と居合わせた杉本花子、安田貢等に対して口外した事実があること、(ト)被告人は同夜は東ハルヱ方に帰らず安田理八方住宅階下六畳間に泊り床に就いて将来のことを考えたが、前途に対する希望を失い自己嫌悪の情にかられ、正しい生活に入ることの自信を失い自暴自棄となり、いつそ安田理八所有の工場に放火し、安田理八に叱責された鬱憤を晴らすと共に、火中に身を投じて自殺しようと決意するに至つたことが認められ、被告人の性格、生活歴殊に自殺を企ててこれを遂げなかつた前歴のある点等から観察すれば、前記認定の如き被告人の本件犯行の動機は、決して、常識的に受容れることが出来ないような不自然なものでなく、寧ろ被告人のような性格の者が斯る境遇に立つた場合、斯る心境に陥入る可能性が十分にあると考えられる。ただ、被告人が放火後実際に自殺を図つた形跡を認め得ないことは証拠上明かであるが、右は、一旦死を決意したにも拘らず、その後恐怖の余り、さきの決意を変更したものと認め得るから、此の事あるの故をもつて叙上認定を下す支障となすに足りない。(六)原判決は、「仮りに被告人において放火の上焼死する動機があつたとしても、そうした自殺を決意した者の行動として着ていた寝巻をわざわざ普段着の背広に着替えたという点、工場内のコワ板の上並に床板上に六尺四方に亘つて約五升の軽油を撒き散らしたといいながら着衣にはその飛沫が全く附着しなかつたという点、更には放火した火の傍に三、四分乃至十分いたといいながらその着衣には燻焦の痕跡が何等存しない点、は焼死自殺を決意してこれを試みたという供述の真実性について多分の疑問を抱かせるに足る。」というのであるが、なるほど、被告人が寝巻を普段着の背広に着替えたこと、被告人の着衣に軽油の飛沫が附着していなかつたこと、着衣に燻焦の痕跡の認められなかつたことはいずれも記録上認められるけれども、被告人の司法警察員に対する昭和二十九年三月二日附第四回供述調書中「僕はその時油を使えば工場に火がつくと考えられたので、僕の寝ている蒲団の上に脱いでおいた茶色の背広のポケツトにマツチと福井夕刊の新聞があることが判つていたので、僕は工場の中の製材コワに油をかけてマツチで新聞紙に火をつけてその油に火をつければ工場が燃えると思つたのです。それで僕は隣の主人夫婦はもう寝ついて了つている様子であつたのでソーツと寝巻を脱いでその茶色の背広と黒サージのズボンをはいたのです。」「僕は寝巻のまま出ることがなく起きるとすぐ寝巻を脱いで着替える習慣になつているので洋服に着換えたのです。」との供述記載、被告人の検察官に対する第一回供述調書中「結局私が寝ている布団の裾の上に置いてある普段着の茶色の背広上着の右外ポケツトの中に入つているマツチと夕刊福井の二頁一枚の新聞紙を工場へ持つて行きコワ板の東側の板張りの所へ工場の目立機の附近に置いてある軽油かスピンドル油をまき散らしマツチで火をつけた新聞紙を油をまいた所に置いて火をつけてやろうと決心したのです。」「寝巻を普段着に着替えたのは外へ出る際寝巻の儘出た癖がないのでそんなことをしただけなのです。」問、「それ以外の理由はないのですか。」答、「寝巻よりは普段着の方が身軽るで行動がし易いこととか、工場東側入口にごちやごちやと積重ねてある薪にする様なコワ板に寝巻の裾が引掛つたりして内側から工場の東側に立て掛けてあるコワ板などが倒れて音でも出したりして人に気付かれたりしては困るという理由もありました。」との供述記載によれば、被告人が放火に際し寝巻を脱いで普段着の洋服を着用した所以のものは、(イ)放火の用に供せんとするマツチと新聞が洋服の右外側のポケツトに入つていたこと、(ロ)被告人は外に出る際寝巻を脱いで洋服に着替える習慣があること、(ハ)洋服は動作に便利であるに対し、寝巻は、その裾が積重ねてある板類に引掛り易く、動作に支障を来すこと等によるものであると認められ従つて放火に際し被告人がわざわざ洋服に着換えたからと言つて別段不合理であるとも認められず、また、被告人の検察官に対する第四回供述調書中「その時両足に幾分油がかかつた様な気がしましたが洋服やズボンまでかからなかつたと思います」との供述記載によると着衣に油が附着しなかつたことが推認できるし、たとえ約五升の軽油を撒き散らしたからといつて必ず着衣に飛沫が附着するものとも限らないし、放火した火の傍に暫時うずくまつていたからといつて、必ずしも着衣に燻焦の痕跡を生ずるものともいえないから、従つて着衣に軽油の飛沫が認められず、着衣に燻焦の痕跡のなかつたことをもつて、直ちに被告人の供述に真実性なしとする根拠とするを得ない。(七)被告人は司法警察員に対する昭和二十九年三月二日附第六回供述調書中に於て「その時使つた夕刊と申しますのは福井市の福井新聞社が発行している、夕刊福井、という夕刊新聞で半分の二頁のものであります、それは僕が先月の一日に僕の実家に帰り夜汽車で松任へ帰える時にそれを家から持つて来たもので確かその日の夕刊であつたと思います。」と述べ、司法警察員に対する同日附第五回供述調書中に於て「先程僕が火をつけるのに使つたと申しました、夕刊福井、は先月一日附のものではなく今思い出しましたが、それは先月の二十二日に春江の愛ちやんのところへ行つた時に春江から午後六時四十分の汽車で松任へ帰える時に国鉄春江駅の売店で買つた、夕刊福井でありましてその日附は二月二十二日になつているか、二月二十三日になつているか覚えはありません。」と述べ、検察官に対する第四回供述調書中に於て「今聞きますと二十二日附の夕刊福井新聞が東ハルヱのもとにあるとのことですが、そうすると、二十三日朝河岸方のハルヱの処から出掛けに同人が取つている北国新聞を無意識にオーバーのポケツトに捻ぢ込んで出たものと思います。そうしてそれを前述のように上衣のポケツトに入れ替えたに相違ありません。左様な次第で私は福井新聞であつたとのみ思つていたのでこの前もその様に申したのですが福井新聞が現在あるとすれば北国新聞を使用したのに間違いありません新聞紙の外ボロ片等は使つて居りません。」と述べさらに、検察官に対する第二回供述調書中において、検察官の「二月二十二日晩春江駅の売店で買つた夕刊福井新聞はどうなつているか」との問に対して「その新聞は松任に帰える途中の汽車の中で捨てて仕舞いました。同月二十三日の晩私が安田さんの所へ行つた時新聞紙類は持つていませんでした。」と述べていることは記録上明白である。斯様に放火材料である新聞紙の出所に関する被告人の供述には幾多の浮動があり、ことに「東ハルヱの許より北国新聞を携行して来たのかも知れない」旨の供述に至つては、原審及び当審における東ハルヱに対する証人尋問調書原審第九回公判調書中証人東ハルヱの供述記載に徴して認め得る昭和二十九年二月二十二日附の夕刊福井は本件火災後東ハルヱの保存する古新聞紙中より発見され却つて同女の購読保存する北国新聞に一部不足のある事実に対し、強いて供述を一致させようとしたものであるかの如き印象を受けるものであり、決して十分な供述であるとは考えられないけれども、しかしながら、以上の被告人の各供述に対し、さらに吟味を加えるときは、(イ)被告人の自白は新聞紙を導火材料として使用した旨を供述している点に於て終始一貫して居ること、(ロ)検察官より新聞紙の相違を指摘されても、犯行の自白を飜すことなく、導火材料は新聞紙の外のものを使つたことがない旨を供述していることを認め得べく、右の事実に徴すれば、たとえ新聞名及びその出所が明確にされないからといつて、世上新聞紙の類は殆ど随所で入手出来得るものであり、その入手先を失念することも往々あり得べく、従つて、その一事あるの故をもつて、必ずしも被告人の自白に信憑性なしとするを得ない。(八)原判決は、被告人は製材工場に放火しその火の中で焼死を遂げるため火の傍に蹲つていたその滞留時間についての供述が後の供述となるに従つて短時間となつている点を挙げ、被告人の自白に信憑性なしと論じているけれども、被告人は放火の際、時計を見ていたわけでもなく、当初発火より炎上に至る迄の時間を、極めて長時間であるかのような印象を受け、その後取調の進展につれ次第に冷静に立戻り、理性の上より事物の推移を考え、時間の経過を常識的に次第に短縮して供述することは、心理学的に肯定し得る事であり、被告人の供述に左様な変更があるからと言つてその供述に信憑力なしとするが如きは、決して慎重な態度であると言うを得ない。(九)更に被告人の各自白調書を検討すれば放火の時刻が昭和二十九年二月二十四日午前二時半頃より三時までの間であること、被告人の寝室である六畳間と縁側の境の戸を開け、縁側と便所の境の引戸を開け次に便所の開戸を押して開け最後に倉庫と便所の間にある外に出る差込錠がかかつている硝子戸の錠をはずしてこれを開けて外に出て工場の東側の入口から工場に入つたこと、縁側から便所に行く処に、便所用の下駄とゴム草履が置いてあり、そのゴム草履を履いて出たこと、工場に入つて目立機北方にある油罐を手に持つてモートルの近い処(レールの東側)に堆積しあるコワ板に軽油を散布しなおベルトの下の方から目立機の方に亘り油を撒いて点火したこと、その油罐には約五升の軽油が入つていたことについて、その各供述が終始一致していること、更に被告人のいう点火したという地点と、司法警察員作成の昭和二十九年二月二十六日実況見分調書及び原審における第一、二回検証調書により認められる発火点とが一致していること、特に被告人の検察官に対する第一回供述調書中「その時便所へ行くまでの左側に高さ三尺位の上のところにある普通の硝子戸の入つた高窓を通じて事務所の二階の貢さん夫婦の部屋が偶然目に入りました。その部屋には小さな電気だけが灯してあるらしく少し明るくなつて居り貢さん達は寝ている様に思つたのです。その二階の部屋の東側及び北側は板が張つてあつて窓がありませんがその南側及び西側は窓があります。便所へ行く前に高窓を通じ二階の方を見た時その二階の部屋の南側にはカーテンが掛つて居りませんでした。」問、「その二階の部屋の南側にカーテンが掛る様になつているかどうか、君は知つていますか。」答、「カーテンが掛る様になつているかどうか二階へ上つたことは一回だけありますが、そこまで良く見て居らず全然知りません。」との供述記載があり、原審証人安田貢の証言中「当時私は西を頭にして寝ていたのですが起きるなりその西側の窓に張つてあるカーテンを引いて外を見ると製材工場が燃えているのを見たのです。」との供述、原審証人安田明子の証言中、同人と夫貢の部屋には南側と西側に窓があり、南側は本宅の側であり西側は工場の側であるが、その南側の窓にはカーテンはなく、西側の窓にはその内側にカーテンが設けられてあり、就寝の時にスタンドの豆電球は消さずに灯したまま寝た旨の供述、当審証人安田理八の証言中、貢夫婦の室は南側の窓にはカーテンはなく、西側の窓にはカーテンがあつた旨の供述、によれば、放火に際し便所(本宅側)の処から見て、安田貢夫婦が寝ていた室には小さな電灯だけが灯してありまた、二階の南側窓にカーテンが掛つていなかつた旨の被告人の供述は事実と一致するものと認められる。(十)原審証人安田明子、同安田貢の各供述、安田貢の司法警察員梅村熊次郎に対する供述調書、同人の検察官に対する第一回供述調書、安田理八の検察官に対する第一回供述調書によれば、安田貢が帰宅したのは昭和二十九年二月二十四日午前零時三十分頃と認められ原審第三回公判期日における証人安田理八の供述、同第四回公判期日における証人安田外美子の供述、同第六回公判期日における証人安田理八の供述、当審における証人安田理八に対する証人尋問調書によれば原審証人安田たつの供述はその信憑性を認めるに十分であり右原審証人安田たつの同夜午前二時過頃便所の方角にある戸の鍵を抜く音や便所横の開戸の開く音を聞いたという供述は同女が安田貢の帰宅の際の物音とは別個に、その後何人かが安田方より外部に出入した物音を聞いたことを意味するものと解し得べく、該証言に措信する以上、放火犯人は安田理八方に宿泊する者の内の何人かであると認めざるを得ない。(十一)原審証人手取三郎の供述によれば、被告人が本件放火につき軽油を用いたということは、搜査官たる手取三郎もこれを知らず、被告人の自発的な供述によつて、はじめてこれを知つたことが認められる。(十二)被告人は昭和二十九年三月十日附検察官に対する第四回供述調書中に於て、「そこで周囲を見廻したところ、目立場の隅の方に製材屑で作つた薪木を繩でしばつたものが、七・八束位積んである上に古蓑が一枚二ツ折位にして乗せてあつたのが目につきましたので、それを燃えている「コワ」の上に二ツ折のままかぶせました。その蓑は平素誰も使用したのを見たこともないので、安田方の物か或は他の人が忘れて行つたものか私は知りませんが蓑のあつたことは間違いありません。」と自ら供述したことが認められるところ、安田理八の昭和二十九年三月十一日附検察官に対する第二回供述調書、安田貢の同日附検察官に対する第二回供述調書、原審第四回公判期日における証人杉本花子の供述によれば被告人の供述した場所に、その供述通りの蓑があつたことを認め得べく、しかも、これ等関係人等も、右の蓑が目立たぬ場所に置いてあつた丈けに、これが放火の材料として使用せられようとは思いもよらず、被告人の自発的な供述により、その存在がはじめて本件放火行為と関連を持つに至つたことは、記録に徴しこれを窺知するに足る。(十三)被告人の昭和二十九年三月二日附司法警察員に対する第七回供述調書添付の被告人の手記中「その間何度も警察に自首しようと思いましたが、おそろしく朝七時まで居たのです。そうして花子さんの処で朝食をすませ警察の前まで来ましたが、どうしても入ることができず花子さんの家に帰つたところ警察の方が見えまして一緒に来ました。」との記載、被告人の警察官に対する第一回供述調書中「火事になつて、火は次々と燃え移り沢山の家が焼けているのを安田さんの南の方の田甫の所で見て居りましたが、大変な事をしてしまつた、警察へ自首して出ようとも考えていたのです。」との供述記載、被告人の検察官に対する第四回供述調書中「それから午前九時頃と思いますが警察の様子が知りたいと思い花子に、僕の父が火事のことをラジオで聞いたりして見舞に来るかも知れないから駅まで見に行つて来る。と言つて嘘を言い同家を出て警察の前まで来ましたが、別に道路から入り口の方へは入りませんでした。警察の入口の戸は開いていましたが唯も人影は見えませんでした。それからバスの停留所前まで行き又花子方に引返して来たところ、警察の方が二人来て居りそれから警察署に連れて行かれたのであります。私がこれまで自首するつもりで警察の前まで行つたが中に入られず帰つた様に申したのは偽りで本当はただ様子を見に行つたに過ぎないのです。」との供述記載、原審第十二回公判における被告人の供述調書中裁判長との問答において、問、「実際に九時頃に駅へ行つたのか」答「そうです」、問「警察の前へ行つて戻つて来たのではないか」答「いやバスの停留所の傍まで行つて戻つて来たのです」、問「しかし警察、検察庁では警察の前まで行つて戻つたと述べていたのではないか」、答「それは放火を自白してから言つたのです」問「何故放火を自白してからその様に言つたのか」、答「手取警部に、お前は確かに警察まで見に来たのだ、とか何故駅へ行く、とか言つたので私は父がラヂオで知つて来るかも知れないと思つて行つた、と答えたのですが、そんな馬鹿なことがあるか、と言われ色々と叱られたのでそう言つたのです」、問「そんな九時頃に着く汽車があつたのか」、答「別にあるともないとも思つていなかつたのです唯無意識に行つただけです」との供述部分、原審証人梅村熊次郎、同手取三郎、当審証人梅村熊次郎、同手取三郎の供述、当審における検証調書を各綜合すれば、被告人は、良心の苛責に堪えず自首を決意して松任警察署の附近のバス停留所まで行つたが決断がつかず引返したものと認められる。若しも当時被告人の心神に激しい動揺がなかつたならば、汽車の時間も確めずに駅の附近を殆ど無意識に徘徊する筈もなければ、警察署の動静を探りに出る理由もない訳である。(十四)原審証人梅村熊次郎、同手取三郎、当審証人東ハルヱに対する証人尋問調書、当審証人梅村熊次郎、同手取三郎、同奥祐成の供述、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書の内容自体、被告人の原審における供述、押収にかかる証第五号乃至第八号の各録音テープの存在並に録音の内容等を綜合すれば、被告人の司法警察員並に検察官に対する各供述調書被告人の司法警察員、検察官、裁判官に対する各弁解録取書は搜査官の強制、拷問又は脅迫による自白とは認められず、また記録によれば被告人の自白は、不当に長く抑留された後に為されたものでないことを認めるに足る。(十五)被告人において犯行を否認した検察官に対する第二回供述調書記載の内容を検討するも、犯行否認を首肯するにたる根拠に乏しくその供述は措信し難い。

以上を綜合し検討すれば被告人の司法警察員及検察官に対する各供述調書及び被告人の司法警察員、検察官、裁判官に対する各弁解録取書中に記載された各供述は任意に為されたものであり、検察官に対する第二回供述調書を除くその他は、いずれも真実を供述したものと認めるに十分である。従つてこれらの証拠及び原審で取調べた他の証拠を綜合すれば、本件公訴事実を認めるに十分である。しかるに被告人の各自白調書に信憑性なしとし、その他検察官の全立証をもつてしても本件公訴事実を肯定するに足りないとして被告人に対し無罪の言渡をした原判決は、証拠の取捨選択及びその価値判断を誤り事実を誤認したものというべく、この誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつて刑事訴訟法第三百九十七条、第三百八十二条により原判決を破棄し、同法第四百条但書により更に判決する。

(罰となるべき事実)

被告人は坂井農業学校を中途退学し家業の製材業の手伝いをしているうち、小学校当時の同級生であつた女性と恋愛して情交関係を結び、同女に姙娠させ親に説諭されて同女と別れたが、その後も行状を改めることなく飲食店の年長の仲居と関係して父より激しく叱責され、アドルムを服用し自殺を図つたことがありその後も昭和二十八年五月には春江駅前滝川飲食店の仲居で約二十歳位年長の砥山愛子と情交を結び、更に同年十一月初頃丸岡町の飲食店三楽の仲居で十歳位年長の東ハルヱとも情交関係を結び、同月中旬頃自宅より現金五万円を持出し、右ハルヱと石川県石川郡松任町に駈落し、同町辰巳町河岸友一方の二階に同棲し、同年十一月下旬頃製材業安田理八方に製材工として職を得、爾来同人方に於て稼働し、支払われた賃金に因て生活して来た者であるところ、かねてより自己の不行跡について自責の念に駆られながら、これを改めることが出来ず、東ハルヱと同棲中も砥山愛子との関係を続けて居たため、愛子、ハルヱの両名からは互に他の女と別れるよう迫られ、殊に同棲中のハルヱとの間には痴話喧嘩の絶え間がなく、困惑の余りこれ等の女と別れる目的で、昭和二十九年一月頃同郷の木村一栄に求婚したが相手にされない始末で、東ハルヱと別れることをさきに父に誓いながら到底その実行ができず自然勤めも怠り勝ちとなり、昭和二十九年一月中は十日位、同年二月中は一週間乃至十日位しか出勤せず、同年一月中旬頃東ハルヱから「安田貢が『被告人は仕事を怠け材料も無駄にする。』と言つていた。」ということを聞かされ、雇主からも信用されなくなつたことを知り、極めて不快に感じていた折柄、たまたま、同年二月二十三日朝安田方の事務所内で、被告人が安田外美子、杉本花子等に対し「音楽学校に入学したいので洋服を質に入れたい」旨話している際外出先より帰宅した安田理八がこれを聞き被告人に対し「音楽学校に行くことも結構だが父親からも被告人の世話を依頼されているので、自分が明日にでも春江に行き父親に話してやる。親の了解を得なければならない。いずれにしても意思を強くしなければ駄目だ。お前はふらふらしていて駄目だ」と注意され、これに対し被告人は父親に自己の最近の生活状態、並に安田方より暇を取ろうとする意図が暴露することを虞れるとを同時に両親に対する不孝を感じ、同日は東ハルヱ方に帰えらず安田理八方の住宅階下六畳間に泊り同夜床についてかれこれ将来のことを考えたが、正しい生活に入ることの自信を失い自己嫌悪の情にかられ失意の上自暴自棄となり自己の勤務する石川県石川郡松任町字茶屋町六十七番地所在の人の住居に使用せず、かつ人の現存しない安田理八所有に係る木造瓦葺平家建製材工場一棟(建坪七坪)に放火した上、火中に身を投じて自殺しようと決意し、右工場に放火せば前記工場に近接する附近の住宅をも焼燬するに至るべきことを認識予見しながら昭和二十九年二月二十四日午前二時四十五分頃前記工場内において堆積せるコワ板及び床板上に軽油三升位を散布し所携のマツチで点火せる丸めた新聞紙一枚を前記コワ板の隙間に差し込み点火して放火したが、火焔が炎上するのを見て、恐怖の余り、自殺を断念して退避したものであつて、右放火行為に因り、前記工場及び同人の所有に係る木造瓦葺二階建住宅二棟(建坪九十二坪)を焼燬した外別表記載のとおり現に人の住居に使用する住宅二十六棟を全半焼せしめたものである。

(裁判長判事 成智寿朗 判事 大友要助 判事 沢田哲夫)

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